宮古空港ターミナルビルの位置がもたらすもの

自然と開発、経済、地域格差の変動

 かつて、宮古空港のターミナルビルと駐車場は現在の位置の反対側にありました。ターミナルビルは琉球舞踊の舞い手がかぶるあのあざやかな花笠をイメージした屋根であったことが思い出されます。那覇や本土等への旅が、かつての船便から航空便へと大きく変わるなかで、航空機の大型化や需要の増大等、いつしかターミナルビルや駐車場の収容能力も変容を余儀なくされ、広大な用地の確保が可能な現在地に移転したものでした。

 このターミナルビルと駐車場の位置が現在地に移転したことがもたらす意味は人々が意識する以上に大きいと思われます。長い目で見れば、あるいは宮古島における経済や文化の要衝を変化せしめるほどのインパクトを与えるのではないかとすら思ったりします。ターミナルビルや駐車場が滑走路の片側からもう一方の片側へほんの1Km程度移動し、出入り口も同時に移動しただけで何を大げさなと思われるかもしれませんが、ことはそう単純ではありません。かつて平良が宮古島の経済や文化の要衝として栄えたのは、周知のとおり、漲水の港という良港に恵まれたからでした。戦前、宮古には空港などなく、戦中に軍事目的で造成され(現空港は旧日本海軍の飛行場)ましたが、JTAの前身、南西航空が宮古・那覇間に就航したのは1967年(昭和42年)で、それまでは船舶にたよるしかなかったのです。宮古島の旅客機の歴史はせいぜい42年程度ということになります。ですから、それまでは人も物もすべて平良に港を経て出入りし、必然的に平良が宮古島の中心地だったのでした。1967年から航空路線開設にあっても、ターミナルビルや駐車場は旧平良市の需要に配慮した市街地寄りにその出入り口があったのです。

 しかし、近年のターミナルビルの移転は、その様相を変えてしまう気がします。現空港出入口は平良の中心市街地を距離感のあるものにし、上野や下地を近いものにしています。年月の流れとともにこの感覚はより固定化してしまいそうです。物流は船舶、人は航空機というように二分化されつつありますが、この傾向はしばらくつづくかもしれません。ともあれ、空の玄関口が上野や下地に向け開かれているとすれば、いろいろと想像力をふくらませることも可能なのではないでしょうか。上野や下地には、おそらく徐々に開発の波が寄せてくるでしょう。これはもう必然としか考えられません。緑や貴重な自然を残す準備が必要かと思われます。平良が宮古の経済・文化の要衝であることには変わりはないと思えますが、問題は城辺地域と伊良部地域でしょうか。城辺は過疎、少子高齢化がやまず、伊良部架橋の完成は伊良部地域の過疎化、少子高齢化に拍車をかけかねません。

 地域での雇用の貧しさ、農業など一次産業の総体的な収益の低さは相変わらずですが、しかしながらホテルやゴルフ場の開設等、開発規模の広さに比べた雇用効果は今ひとつです。地域の基幹的産業を大事にすることが基本でしょうが、地域の内発力を生かし、地域資源を活用した起業に期待します。そして何より自然を大切に。そこにある手つかずの自然こそが来訪者を感動させます。

  

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