2013年 宮古島市長選挙について
2013(平成25)年1月13日告示、20日施行の宮古島市長選挙について、私共野党の側はついに対立候補の擁立に至らず、結果、自民、公明、中道保守の推す現職市長の再選を許す結果となりました。このことは、市民の、市長を選ぶという選択の権利を奪うとともに、審判の結果を経ずして今後4年間の市政を現職にゆだねるという結果をまねくわけで、内心忸怩たるものがあります。市議会議員の一人として、市民の皆様には申し訳なく思っています。
なぜ、対立候補の擁立に至らなかったのか、そして今後どのように対応していくのか、このあたりのことについて、自分なりに説明する責任を感じます。
ご存じのとおり、候補者の擁立に向けては数年も前から人々の間で自然発生的に模索が始まります。その時点で選定委員会が設置されるのではなく、有権者それぞれが自薦もふくめ、意中の人を挙げあうなかで徐々にしぼられていくのが普通です。そして、人格、識見、本人の周辺(親戚等)、健康等、もっとも多くの支持のあつまる人、その次の人など数人が浮上した段階で選考委員会が設立され、個別・具体的、かつ総合的に検証された後に本命のへの要請が行われます。普通は。ですが、強い自薦や他薦があって、立候補を譲らない場合があり、譲らないままに告示の日を迎える場合が多々あります。一本化不調整、少数・多数乱立等がこの例です。前回がこのパターンでした。保守系も一本化できませんでしたが、革新系も同様でした。開票の結果は、保守系候補の勝利でした。
詳述は避けますが、前回選挙戦の過程で革新系の現職県議の動向が現在にいたっても尚、尾を引き、今選挙戦に微妙な影響を及ぼしたことは痛恨の一語に尽きます。知られているとおり前回市長選挙で現職県議が保守系中道候補の支援に回ったことが、革新系の支持者に深い違和感をもたらしたことです。本人は、候補者一本化への努力はもちろん行ったのでしょうが、それが叶わなくなった後の保守中道候補への支援は、これまでの革新系支持者に十分な説明がされたのかどうか。かえりみて、おそらく十分な説明がなされなかったというのが大方の認識ではなかったかと思われます。ただ、同県議の保守中道候補支持表明が革新系候補を支持する有権者にとってとりわけ唐突に思えたこと、一種の裏切り行為と映ったことは払拭できなかった感がします。
県議本人が従来の革新勢力の枠をひろげ、中道保守勢力をとり込みながら強力な保守勢力に対抗しうる潮流をめざしたのだという意図は、理解し得るところですが、しかし、この試みは革新勢力に深い亀裂をのこすこととなりました。この市長選挙選挙の過程で、県議本人が保守中道候補と組むこととなる自分自身の真意を十分に説明したのかということについては、私にも一定の疑問は残ります。反自民・公明を標榜する選挙過程で、より勝率の高い候補に自陣営を収斂せしめることは必ずしも否定されるものではありませんが、その手法に拙速さやひとりよがりが介在していなかったか、保守中道系をとり込むというよりむしろ、とり込まれたと見る向きが多くなかったか、そのような疑問がつきまとうのです。
それから約3年後の2012(平成24)年夏に県議選が施行されました。多良間村をふくむ宮古選挙区は定数2議席。これまで保守と革新が1議席づつ分けあってきましたが、この年は無投票で前職がともに議席を分けあう構図となりました。無投票となったことであまり目立つことはなかったのですが、そのさなかにあっても革新の側の亀裂はなお埋まらぬままでした。期間中、仲介もあって、最低一度は修復に向けた会合がもたれたと聞いておりますが、折り合いはつかぬままだったようです。その後、今年1月の市長選挙に向けた取り組みについて、革新系候補者選考には県議自身加わらないことを表明、市議団中心で進めるよう要請をし、以後はかかわらなくなりました。自身が加わると無用な混乱をひきおこしかねない、との思惑があったようです。7月以降、野党議員団を中心に候補者擁立に動きますが、要請先からは「野党議員団のまとまり、支援市民のまとまり、いわば選挙戦に向け、一枚岩となれる環境整備」のあり方を問われるなど、擁立に向けた足場づくりがなかなかできず、日はいたずらに過ぎゆくのみ。
11月6日、保守中道系の「21世紀新風会」4議員と民主党支持の1議員が現市長支持を表明。与党に回ります。これを受けて、残った野党議員5名で新たな野党連絡会を結成し、この月、市民有志によびかけて「明るい宮古島市をつくる会」を設立、候補者の模索をつづけますが、それでも尚、有力な候補予定者の選出は叶いません。限度ぎりぎりまで努力するとはしたものの、12月7日の立候補予定者説明会にいたっても果たせず、年末を迎えることとなります。12月後半、「つくる会」での会合にては、事実上の擁立断念を確認、明けて2013(平成25)年1月10日の記者発表という事態になりました。
私見ですが、この間の市長選への取り組みにつては、時間的な余裕もあり、争点(地域格差の問題、学校の統廃合、中心市街地の落ち込み、総合庁舎の建設の是非等々)も存在するというのに、とうとう対抗馬を立て得なかったのは、やはり、野党の側の足並みの乱れが大きく響いた感がします。自戒も込め、念を入れた今後のたて直しのための取り組みが求められています。
なぜ、対立候補の擁立に至らなかったのか、そして今後どのように対応していくのか、このあたりのことについて、自分なりに説明する責任を感じます。
ご存じのとおり、候補者の擁立に向けては数年も前から人々の間で自然発生的に模索が始まります。その時点で選定委員会が設置されるのではなく、有権者それぞれが自薦もふくめ、意中の人を挙げあうなかで徐々にしぼられていくのが普通です。そして、人格、識見、本人の周辺(親戚等)、健康等、もっとも多くの支持のあつまる人、その次の人など数人が浮上した段階で選考委員会が設立され、個別・具体的、かつ総合的に検証された後に本命のへの要請が行われます。普通は。ですが、強い自薦や他薦があって、立候補を譲らない場合があり、譲らないままに告示の日を迎える場合が多々あります。一本化不調整、少数・多数乱立等がこの例です。前回がこのパターンでした。保守系も一本化できませんでしたが、革新系も同様でした。開票の結果は、保守系候補の勝利でした。
詳述は避けますが、前回選挙戦の過程で革新系の現職県議の動向が現在にいたっても尚、尾を引き、今選挙戦に微妙な影響を及ぼしたことは痛恨の一語に尽きます。知られているとおり前回市長選挙で現職県議が保守系中道候補の支援に回ったことが、革新系の支持者に深い違和感をもたらしたことです。本人は、候補者一本化への努力はもちろん行ったのでしょうが、それが叶わなくなった後の保守中道候補への支援は、これまでの革新系支持者に十分な説明がされたのかどうか。かえりみて、おそらく十分な説明がなされなかったというのが大方の認識ではなかったかと思われます。ただ、同県議の保守中道候補支持表明が革新系候補を支持する有権者にとってとりわけ唐突に思えたこと、一種の裏切り行為と映ったことは払拭できなかった感がします。
県議本人が従来の革新勢力の枠をひろげ、中道保守勢力をとり込みながら強力な保守勢力に対抗しうる潮流をめざしたのだという意図は、理解し得るところですが、しかし、この試みは革新勢力に深い亀裂をのこすこととなりました。この市長選挙選挙の過程で、県議本人が保守中道候補と組むこととなる自分自身の真意を十分に説明したのかということについては、私にも一定の疑問は残ります。反自民・公明を標榜する選挙過程で、より勝率の高い候補に自陣営を収斂せしめることは必ずしも否定されるものではありませんが、その手法に拙速さやひとりよがりが介在していなかったか、保守中道系をとり込むというよりむしろ、とり込まれたと見る向きが多くなかったか、そのような疑問がつきまとうのです。
それから約3年後の2012(平成24)年夏に県議選が施行されました。多良間村をふくむ宮古選挙区は定数2議席。これまで保守と革新が1議席づつ分けあってきましたが、この年は無投票で前職がともに議席を分けあう構図となりました。無投票となったことであまり目立つことはなかったのですが、そのさなかにあっても革新の側の亀裂はなお埋まらぬままでした。期間中、仲介もあって、最低一度は修復に向けた会合がもたれたと聞いておりますが、折り合いはつかぬままだったようです。その後、今年1月の市長選挙に向けた取り組みについて、革新系候補者選考には県議自身加わらないことを表明、市議団中心で進めるよう要請をし、以後はかかわらなくなりました。自身が加わると無用な混乱をひきおこしかねない、との思惑があったようです。7月以降、野党議員団を中心に候補者擁立に動きますが、要請先からは「野党議員団のまとまり、支援市民のまとまり、いわば選挙戦に向け、一枚岩となれる環境整備」のあり方を問われるなど、擁立に向けた足場づくりがなかなかできず、日はいたずらに過ぎゆくのみ。
11月6日、保守中道系の「21世紀新風会」4議員と民主党支持の1議員が現市長支持を表明。与党に回ります。これを受けて、残った野党議員5名で新たな野党連絡会を結成し、この月、市民有志によびかけて「明るい宮古島市をつくる会」を設立、候補者の模索をつづけますが、それでも尚、有力な候補予定者の選出は叶いません。限度ぎりぎりまで努力するとはしたものの、12月7日の立候補予定者説明会にいたっても果たせず、年末を迎えることとなります。12月後半、「つくる会」での会合にては、事実上の擁立断念を確認、明けて2013(平成25)年1月10日の記者発表という事態になりました。
私見ですが、この間の市長選への取り組みにつては、時間的な余裕もあり、争点(地域格差の問題、学校の統廃合、中心市街地の落ち込み、総合庁舎の建設の是非等々)も存在するというのに、とうとう対抗馬を立て得なかったのは、やはり、野党の側の足並みの乱れが大きく響いた感がします。自戒も込め、念を入れた今後のたて直しのための取り組みが求められています。
2013/01/15
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